手児奈霊神堂の由来

真間の手児奈伝説

◇美しい里娘「手児奈」

むかしむかし、「手児奈」という美しい娘がいました。上品で満月のように輝いた顔は、都のどんなに着飾った姫よりも美しくみえました。その手児奈の噂は次々と伝えられて、ゆくゆくは国の役所にも広まっていったのです。そして、里の若者だけではなく、国の役人や都からの旅人までやってきて結婚を迫りました。そのために手児奈のことを思って病気をする者や、手児奈を取り合って醜い喧嘩まで起こすものもおりました。

それを見た手児奈は「私の心はいくらでも分けることができます。でも、私の体は一つしかありません。もし、私が誰かのお嫁さんになれば他の人達を不幸にしてしまうでしょう。」といいながらどうすればいいのか悩んでいました。悩みながら真間の入り江まで来たときに、ちょうど真っ赤な夕日が海に落ちようとしていました。

それを見て手児奈は「どうせ長くもない一生です。私さえいなければ喧嘩も無くなるでしょう。あの夕日のように、私も海に入ってしまいましょう。」とそのまま海へ入ってしまったのです。

おいかけてきた男たちは「私達が手児奈を苦しめてしまった。もっと手児奈の気持ちを考えてあげればよかった。」と落胆しましたがもうどうしようもありません。

翌日、浜に打ち上げられた手児奈の亡骸をかわいそうに思った里の者たちが手厚く葬りました。

◇行基菩薩「手児奈」を供養する

時代はさかのぼり、奈良時代の天平9年(737年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)がこの地にお立ち寄りになられた時、手児奈の悲話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思い、「求法寺」を建立され、手厚く弔われました。

その後、平安時代の弘仁13年(822年)に弘法大師空海が教えを弘められるために求法寺へおいでになられ、境内を整備し、「求法寺」を「弘法寺」と改称されました。

さらに時代は進み、鎌倉時代の建治元年(1275年)の時、住職である了性法印尊信と地元の有力者富木常忍との間に問答が起こりました。富木常忍より連絡を受けた日蓮聖人は、伊予阿闍梨日頂聖人を遣わして法論をさせました。その結果、日頂聖人が勝たれ、以来弘法寺は真間の道場となりました。

◇地元の女神となる手児奈

また時代はさかのぼり、文亀元年(1501年)9月9日、当山第7世日与聖人の夢枕に「手児奈」が現れて「私は多くに人に供養していただきました。その御礼として今度は私が皆さんをご守護いたします。」といわれ、

 

「無事安産」・・・元気な赤ちゃんが安産で無事に生まれてきますように

「孝子受胎」・・・赤ちゃんがお腹に宿りますように

「健児育成」・・・生まれてきた子供が健やかに成長しますように

「良縁成就」・・・良いご縁がありますように

 

の4つの守護の誓いをたてられました。

それ以来、現在に至るまで真間の地を守護する神様として、多くの信仰を集めています。